介護小説 衣裏の宝珠たち 記事一覧

*この物語はフィクションであり、物語に登場する人物・団体等
 は全て架空のものであります。

となりの芝が青く見える・・・
  近くを捨てて遠くに求める・・

作:なおとっち

第26話 室井さんの外来ということ 

  「……はい、それでは次の方?室井さまー。室井源次郎さまー。お入りください」
  「おう、失礼するぞ」
  「室井源次郎さんですね。どうぞ。はじめまして、医師の小机です。
   ええと、初診になりますね」

  「あたりめーよ。ワシは病院にかかったことなど、一度もないわい」
  「それはそれは」
  「ここに来るんだってよ、嫁が行け行け、て言うから仕方なく来たんじゃ。
   なーにが
   ≪もの忘れ外来≫じゃ。ふん、ワシはボケておらん!」

  「ははは…皆様そう仰います」
  「ぬぁーにが、『皆様そうおっしゃいます』だ?キサマみたいな若造になにがわかる」
  「ははは…、室井さん。私は老人医療はベテランですよ。とくに認知症は私の専門
   分野ですし、ここの院長でもあります。ご安心してください」
  「ベテランだか、ペテン師だか分からんが、さっさとはじめてくれー」
  「んぐぐ…。…そ…そうですね…。では、まず、簡単な質問をいくつかさせて戴き
   ます。思ったまま答えてください」
  「ふん。分かったわい」
  「まず、室井さんは現在お幾つになられますか?」
  「はあ?そんなの保険証で確認しなかったのか?アホかお前は」
  「へ?」
  「受付に保険証を出してあるわい。いちいち聞くな」
  「んぐぐ…。そ、そうですが…」
  「このクリニックは何を確認しとるんじゃ。次!」
  「………」
  「次の質問!」
  「んぐぐ…は、ははは。わ、分かりました。では、気をとりなおして…。
   今日は何年何月何日何曜日になりますか?」

  「大正100年11月4日、金曜日じゃな」
  「へ?」
  「なんだ?」
  「た、大正…ですか…ひゃ、ひゃくねん…」
  「それが何だ。ワシの暦は大正から、はじまっちょる。昭和も平成もないわい。
   今年は大正100年じゃ。あんた、そんなことも知らんのか?」
  「………」
  「次!」
  「ご、ごほほん…。では、次にうつります。ええ、私たちが今いる所はどこですか?」

  「はあー?」
  「ですから、私たちが今いる所は……」
  「あんたアホか。あんたは何処にいると思ってるんだ?ここはカラオケ教室か?」
  「い、いえ…」
  「あんたがいる所にワシもいる。ワシがいる所にあんたがいる。あんたがいる
   場所がすなわちワシがいる場所になる。それをあんたが分からんでどうする?
   ほんとに、老人医療のベテランか?次!」
  「は、ははは…。で、では、次です…。100から7を引くといくつですか?」
  「なにをー?」
  「で、ですから、100から7を引くといくつになりますか?」
  「ばかにしとるな、こいつ。93じゃ」
  「では、そこから、また7を引くといくつですか?」
  「86。ほんじゃ。そこからさらに7を引いて、それに70を足して、4をかけたら
   いくつじゃ?」
  「へ?」
  「だから、人の話し聞いておるか?86から、7を引いて、それに70を足して、
   さらに4をかけたら、いくつじゃ?」
  「え、ええ…と…86―7=な、ななじゅうく…、なので、ええそれに70を足すと
   …79+70=で、ひゃ、ひゃく…よんじゅうく、149、でそれに…ええと、
   4、4をかけるんですね…ええと…こうなって…で……」
  「596じゃ」
  「は、はあ…」
  「ゴクロウ、だよ。次!」
  「あ、ははは…、ええと、では、私がこれから言う数字を逆から言ってください」
  「またそれか?次!」
  「あ、いえいえ…こ、今度は計算ではなく、数字の……」
  「次!」
  「ああ、はいはい。で、では、今度は違うものですから、よろしくお願いします」
  
「はよーしてくれ。おまえに付き合うのもワシ疲れたわい」
  「ははは…で、では、これから3つの言葉を言いますので、覚えてください。
   あとで、また聞きますので」
  「何で今聞かんのじゃ」
  「ええ…と、これは記憶力になりますので」
  「分かった分かった、はよ、言ってみー」
  「ええと、《 桜 ・ 猫 ・ 電車 》」
  「桜は喰う桜か?」
  「へ?」
  「桜は喰うアレか?桜エビか?」

  「い、いえ、その桜ではありません。い、一般的な、桜です。お花見で見る桜です」
  「猫は?」
  「へ?」
  「生きているものか?それとも招き猫か?それとも眠り猫か?左甚五郎の」

  「生きてます。めちゃめちゃ生きてます。喰いつきますよー、こんなふうに、
   ギャァッーて感じで!」
  「お!」
  「ふふふ、怖かったでしょ、ふふふ。もういいや、もういいぞ、俺は、もういい!」
  「あ、あんた大丈夫か?お、おーい、看護婦さーん」
  「ニャオー!ても言いますよ。甚五郎じゃない!何で甚五郎なんだ!ふふーん。
   生きてる猫に決まってるじゃないか!ギャァッー!」
  「わ、分かったよ。おーい!看護婦さん!ちょっと来てくれー!」
  「ちなみにね、電車!ああ、言うと思ったんだ。はっはっは。これはねー、はしーる

   電車だよ。シュッポシュッポ!て。チンチン電車じゃないよ、ましてや江ノ電でも
   ない!地下鉄でもなければ、ゆりかもめでもない。がーいこくの電車でもない!
   日本!JR!ジェーアールだ!ジュニアじゃないよ、それじゃー子供じゃないか!」
  「おわ!」
  「まーだまだあったんだ。へっへー!これからもっと、もーっと質問があったのにー!
   ぜーんぶ、ぜーんぶお前さんのせいで台無しじゃないか!」
  「わ、悪かったよ、先生。さ、最初からやり直したらどうじゃ、な?協力するから」
  「いいーーんだもーん!そーーんな同情なんか、いらなーいんだもーーん!なーにが、
   大正100年だああああ?なーにが、ゴクロウじゃー?あはははははははははは」
  「わ、分かったよ、な、だからアンタ落ち着いて。な。看護婦さーん!」

「どーせねー、どーせ、ちいさなクリニックですよー、おお、まさしく猫の額だあ!
 ニャオー!ニャニャニャニャ、ニャオーーーン!!」

*この物語はフィクションであり、物語に登場する人物・団体等
 は全て架空のものであります。

となりの芝が青く見える・・・
  近くを捨てて遠くに求める・・

作:なおとっち

第25話 平さんの認定調査の出来事ということ 

  「……はい。有難うございます。それでは、これで認定調査を終了します」
  「もう終わりですか?」
  「はい。聞きとりは終わりました。今後の予定ですが、後日市役所より、
   新しい認定結果が通知されますので、ご確認してください」
  「そうですか…はあ…」
  「…?なにか、まだありますか?」
  「うーん…これは…うーん、言っていいのか…迷うんじゃが」
  「あ、どうぞ。付け加えることがありましたら、ご遠慮なく。
   最初に申し上げましたが、個人情報ですから、秘匿になりますので」
  「うーん…そうじゃな…やはり、言おうかな…」
  「ええ、どうぞ。何でしょうか?」
  「つかぬことを聞くが、君は既婚者か?」
  「え?」
  「ははは。いやーなに、薬指に指輪をしておるから」

  「え?あははは。はい、そうですが」
  「結婚はよいもんじゃなー。ただな、君もゆくゆく奥さんには
   気をつけるんじゃよ」
  「へ?」
  「まーだ早いと思ってはいかんよ。実はここだけの話しなんだが」
  「はあ…」
  「絶対ここだけじゃよ!男同志の約束じゃ!」
  「は、はい」
  「実はうちの嫁のことなんじゃがな」
  「ええ」
  「不倫してるんじゃ」
  「ふ、不倫!」
  「シッシッー!あほたれ!声がでかい!」
  「は、はい。す、すみません…」
  「どーも最近おかしいと思ってなー。やたらデイやショートやら、
   ワシに行かせるし、これはひょっとしてと思ってな。
   倅はお人よしだし、これは倅に言ったほうがいいか、
   やめたほうがいいか、うーん…どうすべきか。ハムレットじゃな」
  「は、はあ…」
  「君はどう思う?」
  「え?は、はあ…い、いやあ、何とも言えないですね…」
  「奥さんが不倫していたら、君はどうする!」
  「た、多分ショックを受けますね…」
  「はあ?それだけか?不倫じゃよ!それもわかーい
   信金の営業マンじゃ。小林じゃよ」
  「はあ…」
  「君の妻が信金の営業マンと不倫しておる!」
  「へ?」
   「あれは今年の夏じゃったなー。ワシがたーまたまデイで
    具合悪くなってなー、いつもなら夕方戻ってくるんじゃが、
  その日は昼頃に帰って来たんじゃよ」
  「……」

     「そしたらじゃ、玄関開けて中に入ると、なんと、リビングのソファーで
      嫁とその信金の営業、小林じゃが、ワシを見た途端、密着していた
      体をぱっ!と」
  「……」
  「こう、ぱっ!と離してなー。こりゃーえれーもんをワシは見てしまったと思って」
  「……」
  「で、嫁はどう出たと思う?」
  「さ、さあ…」
  「その次の日にワシの杖や靴やらを急に買い出したんじゃ」
  「は、はあ…」
  「買収じゃよ」
  「……」
  「まあ無理もないっちゅうか、な。倅も不倫しておるし」
  「へ?」

  「知っておるか、総務のミキちゃんを」
  「さ、さあ…」
  「うちの倅は開発部なんじゃがな。そうそう、あれも今年の春じゃった。
   ワシが行きつけの囲碁教室の夕方の帰り、駅前の喫茶店で
   倅とミキちゃんがおってな、その後離れたネオン街に肩と腰を密着…
   こう密着させて、君ちょっとこっちに」
  「あ、い、いえいえ…わ、分かりましたから結構です」
  「倅は開発部ではなく、子作りの開発部じゃの」
  「わ、笑えないジョークですね…。あ、もう、結構でございます」
  「君!」
  「は、はい」
  「平さんと言ったな。さっきの話しは、男同士の約束じゃぞ。口外するなよ」
  「は、はい…。しょ、承知しました…。そ、それではこれで失礼します」
   ガチャ。
  「あ、平さん、もう父の調査は終わったんですか?」
  「は、はい…ええと、奥様でいらっしゃいますか?」
  「ええ。如何がでした?お電話でお話ししました通り、所用で
   近くの銀行に出かけていたものですから、私は立ち会えなくって」
  「ぎ、銀行!」
  「ええ。それが何か…」
  「あ、あははは。い、いえ…特には別に」
  「父が何か言いましたか?」
  「い、いえ!な、何も…」
  「父は最近被害妄想がひどくなってましてねー、よく言うんですよ。
   ここだけの話じゃから、とか」
  「……」
  「男同志の約束、とか」
  「……」
  「言ってませんでした?」
  「い、いえ、な、何も!あ、あははは」
  「そうですか…」
   ガチャ。
  「こんにちは。奥様、先ほどの手続きでお渡しできなかったものですから、
   お届けに来ました」
  「あら、小林さん」

  「!」(小林さん!)
  「あ、お客様でしたか、出直しましょうか、奥様」
  「いえ、いいのよ。こちらは父の認定調査に来て戴いた「平」さんです。
   今、その調査が終わったところなんですの。ね?平さん?」
  「あ、は、はい。い、今終わったところです。小林さんでしたか、
   わ、私はその、ただの調査員ですので、ご心配なく。
   いや、ほんとに、認定調査に来ただけですから、本当です。
   ほら、これは調査員の証明書ですので。いや、ほんとに、
   そ、それだけで来ただけですから…」
  「ま、ヘンなことを言う人。さ、どうぞ、小林さん、あがって」
  「いや、ほんと、どうぞ。私は帰りますので、ほんと、それだけですから…」

*この物語はフィクションであり、物語に登場する人物・団体等
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となりの芝が青く見える・・・
  近くを捨てて遠くに求める・・

作:なおとっち

第24話 平さんの披露宴ということ 

 ―― 続きまして、新婦のご友人を代表しまして、○○様より…… ――

  「奥様、新婦の方、可愛らしい方ですねー」
  「そうねークミちゃん。平さんもやる時はやる男なのよねー」
  「ふふふ。いいなー、私も着てみたいなーウエディングドレス。ふー」
  「あら、そう言えばクミちゃんの浮いた話、聞いたことがないわねー」
  「あ、ひどいなー奥様。私だってあるんですよ。実はこのあいだ……」
  「おおーい!ボーイさーん!酒がなくなってしまったぞー!」
  「カラオケはまだですか!そろそろ歌いたいんですけど」
  「こらーチョー!まーた≪天城越え≫だろーよ!よせよせ、もう聞きあきたわい!」
  「違います!今回は新作です!」
  「いいんだよ、お前の歌なんか。それより、ボーイさーん!久保田はまだかー!」
   ………。
  「………」
  「………。お、奥様、あ、あのテーブルの方たちは…」
  「た、たしか、お母さんの行っているデイサービスの人たちじゃないかしら。ね、
   お母さん?」

   ………。し、知りません…。
  「え!大奥様のお知り合いの方たちなんですか!」
   とんでもない!
  「あの顔の真っ赤な方が、ええと…席の通りだとすれば…室井さんという方だわね、
   そして、その隣で青い顔している方は…長、長宗我部さん?長い名前だわね…、
   で、その横の渋めの方が…紅さん…という方だわね」
  「≪なごみの森≫さんの利用者さんなんだー。へー、大奥様、面白い方たちが
   いらっしゃってるんですね」
   面白い方というより、変わっている方たちです。
  「高村主任さん、中村さんも、ほら同じテーブルだわ」
  「高村主任さんは、挙式の時にブーケを受け取ったんですって。いいなー」
  「ふふふ。クミちゃんもいずれ幸せがきっと来るわよ」
  
   ―― 有難うございました。それではここでスペシャルゲストをご紹介致します。
     新郎はさきほどご紹介しました通り、介護支援専門員として地域の介護を
     要する方のために日々仕事をしております。実はその利用者様が本日
     披露宴にいらっしゃっています。利用者様を代表しまして、室井源次郎様より、
     祝福のお言葉を頂戴したいと思います。それでは室井様、どうぞ!」
     ブッ!
    「あ、大奥様、大丈夫ですか!」
    ふ、吹き出してしまった…。よりによって…あの男にしたの?
    「奥様、さっきのお酒くれー!て言ってた方ですよね?」
    「そ、そうね…平さんもチャレンジャーだわ…」
    私のかわりが…あの室井ジイとは…
    『ええー。た、ただいまマイクのテスト中!ええー、実はじゃ、本当はワシではなく、
     ほら、あそこにおる、留守シゲさんが、このー、今回結婚した、ええー、平さんの
     担当の利用者なんじゃが、まー今回、ワシが抜擢されたからには、理由が
     あるんじゃ。それは、戦時中に遡る!あれは、そう、満州に……』
      ………。
    ( 30分経過 )
    『…であるからにして、ここからは、ワシが祝いの一曲を僭越ながら披露させて
    戴きます。では、ミュージックスタート! ♪ さーらーばーラバウルよー、まーた
    くるーまーでーはー ♪』

   「お、奥様、あ、あの歌は?」
   「うーん…なにかしらねー?」
    ラバウル小唄です。
   「奥様、昔の歌っぽいですね」
   「そうね…」
    古いです。いい曲ですが、ここで歌う歌ではないです。
   
   ―― あ、有難うございました。と、とても威勢のいい歌で新婚の門出には
                ぴったりの歌でした。えー続きまして、新婦…… ――
   「私も新曲があるんです。ぜ、是非歌わせてください!」
   『こらー!チョー!お前まで歌う必要はないわい!』
   「ず、ずるいですよ、私だって。≪天城越え≫ではないですから!それでは
    ミュージックスタート!」
   『こら、何を勝手に人のマイクを…』

   『 ♪ 別れたーひとにーあーったー、別れたー渋谷でーあーったー 別れたー
    ときとおんなじー、雨のーよーるーだーったー ♪ 』
   「なんちゅう歌歌うんじゃ、チョー」
   「お、奥様…」
   「………」
    や、やってしもうた…チョーさん…
 

  『 ♪ やーっぱりー、わすれーらーれーなーいー、おわ!』
    紅さんだ!
  

  『詫びといってはなんですが、わしが、一曲歌わせていただきやす』
  「お、奥様…こ、こんどは偉くこわもての人が出てきましたね…」
  「クミちゃん、平さんの顔がひきつってきたわ…」
   もう…知らんよ…。


  

    ( 最後まで歌いきる )
  
  ―― あ、あ、あははは…あ、ありがとうございました…さ、さて気をとりなおしま
     して…おわ!――
  『どうーもー!この度は平さん!おめでとうございます!あ、申し遅れました、私、
    ≪すこやか福祉用具≫でお馴染みの森 新太郎でございます!』
  「あら、森くんですよ、奥様。」
  「そうねー、手にもってるのは…」
   いやーな予感…。
  『ここで、本日ご両人の門出を祝い、スペシャルプレゼントをいたしたいと思います!
   ジャジャーン!』
  「つ、杖ですね」
  「そ、そうね…あれでなにするのかしら?」
   あ!平さんが倒れた!
  『実はですねー、この杖はただの杖ではありません!な、なんと、この杖は!』
  「お、奥様!平さんが!」
  「だ、誰か、手をかしてあげて!新郎が倒れましたよ!」
  「大丈夫かー、新郎!チョー!手をかせー!」
 

  ドヤドヤドヤドヤ!

  「キャー!!」
   た、平さん…いつまでも…末永くお幸せに…

*この物語はフィクションであり、物語に登場する人物・団体等
 は全て架空のものであります。

第23話 日帰り旅行ということ ②

  ―― 品川プリンスホテル アクアミュージアム ――

  「はーい、皆様、到着しましたよー」
  「おうっしー、着いたかー、水族館に」
  「はーい、室井さん。ええと、車椅子の方は後ろからリフトで降りていただきます。
   中村さん、誘導をお願いしますね」
  「はーい主任。では、レデイファーストで、留守さんからどうぞ」
   はい、お願いします。
  「続いて、室井さーん」
  「おう!頼むぞー」
  「はい、では次の方、どうぞ」
  「歩行の方は、こちらから降りてください。長宗我部さん、どうぞ」
  「すみません、それでは」
  「米田さん、どうぞ」
  「はい、どうも」
  「紅さん、どうぞ」
  「失礼して」
  「はい、では、皆様、降りましたね。では、こちらへお集まりくださーい。はい、
   それでは、ここから先は水族館になってます。自由行動ですが、他のお客さんも
   いますので、職員は注意してまわってくださいね。11時半にまたここへ戻って
   ください。そしたらご昼食の場所に移動します。食べ終わりましたら、またここ
  に戻ります。イルカのショーが始まりますから。いいですか、みなさーん」

  「はーい」
  「それでは、中へ入りましょう!」
   シュッシュッシュッ。
  「おお、どけどけ」
  「室井さん、気をつけて行ってくださいね、中村さん、留守さんと室井さんをお願い
   しますね」
  「はい。留守さん、行きましょうか」
 
  はい。キーコキーコキーコ。
  「君恋し…」
  「え?」
  「米田さんに、一つ歌を詠もうと思いまして」
  「はあ…」
  「君恋し、エイの尾ひれが…」

  「あ、紅さん、あれはサメですね、すごいですねー」
  「ええ、米田さん」
  「君を刺し、私の想いも…」
  「うわー、大きなエビだこと」

  「伊勢エビと違いますか」
  「はかりしれないほど…」

  「あ、あそこにペンギンがいますわね、紅さん、宜しかったら、一緒に見に
  行きませんか」
  「ワシでよろしければ」
  「………」
  「ええ、是非」
  「では、米田さん、先にどうぞ」
  「あら、有難う、紅さん」
  「………」
  「長宗我部さん、どうしました、楽しんでますか?」
  「あ、主任さん、はあ、まあ…」
  「歌ができましたか、長宗我部さんのことだから、また歌を詠んだのでしょ?」
  「ええ、米田さんのために作ったのですがね…」
  「へー、素敵ですわね。さぞ、米田さんも喜んだでしょ」
  「いえ…私にかまわず、紅さんと行ってしまいました…ペンギン見に」
  「あら…」
  「女心は分からんですな…」
  「はあ…ちなみにどんな歌を詠んだんですか?」
  「君恋し エイの尾ひれが君を刺し 私の想いも はかりしれないほど 」
  「………」
  「ダ、ダメだったのでしょうか」
  「い…いえ、と、とても素敵な歌ですわ…はは。あ、留守さん、どうですか、
  楽しんでますか」
   ええ、かわいい魚がいっぱいですね。

  「そうでしょ、結構いるんですよ、水中トンネル通りました?」
   はい、あそこはいいですね。面白かったです。
  「中村さん、室井さんは」
  「室井さんは、勝手に行ってしまって、でも、あの大きな声ですから、すぐに何処に
   いるか分かりますから。あははは」
   確かに。
  「中村さん、ちょっと変わってもらっていい?私見てくるから」
  「はい、分かりました。じゃあ、長宗我部さん、留守さんと一緒にまわりましょう」
  「ええ…」
  「元気ないですね、長宗我部さん」
   何かありましたね。
  「実はそのう…米田さんが…紅さんと…」
  「え?」
   紅さんのほうに行ってしまった、ということね。
  「私の歌がいけなかったのでしょうか…」
  「はあ…」
   ていうか、バスの降車の時がいけなかったわね。
  「え?」
  「なに?留守さん?」
   さきに降りたでしょ。あれはまず、米田さんを先に譲って、それから
   あなただったんじゃないの。
  「や、やっぱり、あの歌ですか。そっかー、やっぱりね」
   いや、違いますよ。
  「どんな歌だったんです、長宗我部さん?」
  「ええ。君恋し エイの尾ひれが君を刺し 私の想いも はかりしれないほど 」
  「………」
   ………。
  「この歌でしょうか?」
  「そ、そうですね…はは…留守さん、ど、どう思います?」
   た、たしかに…その歌も…一つの原因かもしれません…
  「る、留守さん」
   え?
  「留守さんのために、一つ歌を作りました」
   舌の根が乾かぬうちに、この男は…。行きましょう、中村さん。
  「君恋し エビの触覚 我に触れ ……」
 さて、私もペンギン見よっと。キーコキーコキーコ。

*この物語はフィクションであり、物語に登場する人物・団体等
 は全て架空のものであります。

第22話 日帰り旅行ということ ①

  「♪わたーしーは、東京のー、バスーガールー、はっしゃーおーらいー♪」
  「よっ!ええぞ、バスガイドさん!」
  「♪あかるくー、あかるくー、はーしるーのうよー♪」
   パチパチパチ。
  「はい、バスガイドさん、有難うございました。さーて、次はなにが入ってますかね
   ―。あ、でました。≪ 天城越え ≫ですねー、これはー誰ですかー」
  「うわ!こりゃ決まっとるわい、俳句バカじゃ、な、チョー」
  「短歌です…」
  「な、なにをー!チョー!」
  「そんな後ろの席では、私にヘッドロックできませんよ」
  「お、いうたな、チョー!」
  「まあまあ、室井さん、今日は旅行なんですから
  ね、楽しくね。さー長宗我部さんが歌います。
  ≪ 天城越え ≫です、どうぞ!」
  「♪隠しきれないー、移り香がー♪」
  「もう聞きあきたよ、こいつの石川さゆりは。ところで、主任さん、便所はまだか?」
  「あ、トイレ休憩ですか、そうですね、もうすぐです。今、高井戸を過ぎましたので、
   代々木パーキングには、もうすぐですから」

  「そうか。で、ほんとにそんな都会の中に水族館なんてあるんか?」
  「あるんですよ、これから皆様が行くところは、品川プリンスホテルなんですけど、
   ああ、そうです、そのしおりに書いてありますけどね、
  その品川プリンスホテルの中に『 アクアミュージアム 』という水族館があるんです。

  いいですよー、魚もいっぱいいますし、イルカのショーもありますから」
  「私は一回行ったことがありますよ、和子さんが連れてってくれたから」
  「あ、米田さん、そうですか、お嫁さんがですか、へー」
  「動物は大好きだからねー」
  「そういえば、ワンちゃん飼ってましたよね、えーと名前は…」
「ポチです」
  「あ、そうそう、そうでした。あ、そろそろ、代々木パーキングにつきますね。
   みなさーん、もうすぐパーキングに着きますので、ここでトイレ休憩をしま-す」
  「♪やまーがー、もーえーるー♪」
  「おい、チョー、もう休憩じゃ、歌をやめい」
  「バスが止まるまで、立たないでくださいね、順番にお声をかけますので、それまで
   は座っていてください。中村さーん、車いすの方は後ろのリフトでお願いね」

  「はーい、主任。あ、留守さん、おトイレ行きますか」
   行っておこうかな。
  「じゃ、先にリフトで降りましょう」
   はい。
  「あ、紅さん…だ、大丈夫ですよ…ここはプロに任せてください…」

  「は、はい…」
   どうりで後ろに黒塗りの車が何台もついてくるわけね。
 
 「♪あなーたーとー、こえーたーいー、あまーぎー」
   プチ。
  「はい、着きましたよー、皆様。ここで、15分間休憩とりますねー」
  「………」
  「長宗我部さんも、おトイレ行きますか?」
  「は、はあ、行っておきます…」
   ――― トイレ休憩中 ―――
  「はーい、皆様、よろしいですかー」
  「はーい」
  「お隣りの方はいらっしゃいますかー」
  「はーい」
  「中村さんや、窓側に座っていた、あの人がおらんがいいんかいのー」
  「え?紅さん、どうしました?」
  「右側通路にいた、ほら、ポチがどうのこうの、と言っていた人じゃけん。
   あの人がおらんけん」
  「ポ、ポチ…、あ、米田さん…あ!主任!米田さんがまだです」
  「よろしいですかー、それではしゅっぱーつ!」
  「しゅにーん!米田さんがまだでーす!」
  「え?あ、運転手さん、ちょっとストップ。え?米田さん…あ、ほんとだ。」

  「おい、あのチョーもおらんぞ」
  「あら、ほんとね。ええと、中村さん、見に行ってきてくれる?」
  「はい、行ってきます」
  「あ!ちょっと待って、あれ、米田さんだ、ああ良かったわ、こっちに
  来るわね、ええと、もしかしたら隣りにいるのが、ああ、長宗我部さんだわ
  ああ、二人とも戻ってくるわ、大丈夫、中村さん」
  「チョーめ、この期に及んでしけこみやがったな、あいつ。留守さん、ありゃー
   ダメじゃよ、あの女癖はなおらん」
   は?
  「あいつはやめといたほうがいいぞ」
   ていうか、最初から何も思ってませんけど…。
  「でも、ああいう奴に、なーぜか女は弱いんじゃな、女の七不思議じゃ」
   だから、なーんも思ってません、て。
  「お帰りなさい、さーこれで皆様いらっしゃいますね、それでは、もう休憩なしで
   品川プリンスホテルに迎いますね。それでは運転手さん、お願いしまーす。
   それでは、しゅっぱーつ!」
 
 「おうっーし!次は誰が歌うんじゃ、おう!」
  「はい、ええと次は…」
  「わ、私は、と、途中だったの…ですが…」
  「え?長宗我部さん、どうしました?」
  「い、いえ…」
  「あ、次はこれですね、ええと≪ 崖の上のポニョ ≫ですか、さー誰ですかー」
  「おお、ポニョかー誰じゃ、ポニョは、またチョーじゃないだろうな、おう?」
  「わ、私ではないです…ていうか、私はと、途中で終わって…」


  「え?」
  「あ、そ、そうですか。主任、紅さんでーす、マイクをこっちに渡してくださーい」
  「は、はーい。さー、それでは、紅さんが歌います、≪ 崖の上のポニョ ≫です。
   では、紅さん、どうぞ!」


  「………」

  「………」